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パワーがない
2009.05.01
最近は、ボーイスカウトの指導者をやっていくパワーが無くっているのを良く感じる。仕事が忙しく、他の役務の多々あり、「あれはまだ?これはまだ?」と急かされるのが、本当におっくうになってきて、自分の天職とも考えていたボーイスカウトに関する全てを辞めたい気持ちでいっぱいになっている。

県連盟トレーナーをやっている関係で、他のトレーナーさん達と様々な指導者養成の会で奉仕する機会が多く、ますます多忙でモチベーションが下がる要因になっているのかもしれない。
でも、このトレーナーさん達との活動はパワーをもらえるんですよねぇ・・・
当然ながら、各地区でご活躍されている方々がトレーナーになる場合が多いわけで、そのスキルや考え方もハイレベルで学ぶことが多いのも事実だが、その輪の中でやっていくとやりがいもあり、「がんばらなあかんなー」と改めてボーイスカウト活動への意欲が沸いてくる。

役が増えることによる多忙感からのモチベーションダウンは、問題だけど自分にとってはその役で活動することが、モチベーションアップにもなっている。
今、自隊のスカウトへの情熱が下がっている中、自分としてはこうやって指導者を指導するトレーナー業務をやっていくことが、リハビリになっているのかも知れない。

そのなことではアカンのだろうけれど、現実はそうでまだまだ暗闇のトンネルを出る気配は感じず、一喜一憂しながら自らを奮い立たせて進むしかないんだろうなぁ・・・

明日からは、ウッドバッジ研修所の所員として奉仕に行きます。
準備もまだまだできておらず、今日は徹夜かなぁ・・・
でも帰ってくる時にはちょっと元気になってくるんだと思います。
2009.05.01 00:26 | 固定リンク | ボーイスカウト
言霊(ことだま)
2009.04.13
言霊(ことだま)という言葉がある。
三省堂の「大辞林」では、「言葉にあると信じられた呪力」と表現されている。 もう「呪力」というところで、好きではない言葉であったがいろんな経験をしていくと改めてそれを感じる機会がある。

口から発する言葉には、「呪力」というよりも「気力」が入ってくると思う。
スポーツ選手がやる自己暗示で、うまくいくイメージを想像したり、「自分はできる」と発するのが典型的な例だと思う。自らがイメージを頭に浮かべて、発する言葉にはその気力が乗り、本当の実力が出せたり、それ以上のことができるものだと思う。

ここまでいうと精神論っぽくなるが、逆に「できない」と発してものごとはできないし、「できない」という言葉は「スタートラインにも立つ意志がない」ということではないかと思う。

ボーイスカウト活動をしていると、簡単に「できない」と発する子どもが多いことに気づく。することを頭の中で考えて、いろんなケースやシチュエーションを思い描き、その上で「不可能ではなかろうか」と思っての「できない」はまだいいかもしれないが、軽く考えただけや何も工夫せずに「できない」と言う。

おそらく、「やろう!」という気もないんだろうと思う。もちろん、そのやるべきことに興味がないとか、したくないという感情が先に立っているというのは理解できるが、何の考察もせずになんの工夫もせずに簡単に「できない」という事には腹が立つ。

このへんは、習慣でもある。おそらく、「できない」と言って済む家庭環境や生活スタイルのせいだろう。

そんな時は、「簡単に『できない』と言うな!」、「いろいろ工夫したんか?その上での『できない』なんか?」と声をかけるようにしている。そういう声かけや、今書いている話を子ども達にもしたことしたりと啓蒙活動(?)をしているが、今の子には難しいんだろうな・・・

なぜなら、大人でもそういう人は多いから・・・

ボーイスカウト活動やPTA活動で、たくさんの大人達と協力し合って物事を進めていく機会が多い。その中で簡単に「できない」という大人も多いと感じる。もちろん、その人たちの背景や環境で実際に「できない」こともあるのは事実であるし、自分自身も時間や能力面で実際できないことはたくさんある。

しかし、物事に取り組んだり、進めるには、まずは気力からではないかと思う。子どもに指導する立場、大人のグループで指示をする立場としては、簡単に「できない」と言われると、本当に心が萎えて来るものである。

だから、私はできるだけ、この「できない」という言霊は発さないように心がけている。「やろう」という意志がない限りは何も進まないし、まずは空気を濁すから・・・

でも、ホンマにできそうにないときはどうするか・・・
まずは「できない」と言わずに「難しい」と言うかなぁ・・・・(^_^;)
2009.04.13 00:25 | 固定リンク | 生き方
教育に携わるものとして・・・
2009.04.10
自分が思う「親」の基本は・・・・
ま、「親」だけでなく、学校の先生、青少年育成団体の指導者といった子どもの教育、しつけに関わる全ての大人は全般にそうあるべきだと思うんだけど、

「子どもの見本となる」意識を常に持っているか!?

だと思ってる。

上の子が高校の時の担任が言った言葉に「しつけは背中でするものです」という話があった。正に同感だ。子どもは大人からの直接の言葉で育つのではなく、大人を見て育つのだと思う。

ルールを守らない大人がいるから、子どももルールを守らなくなる。
学校や親からで「信号が青になってから渡りましょう」と教えられても、実生活で大人がガンガン信号が赤でも渡っていたら、「あぁ、自分で判断していいんだ」と子どもは思うだろう。当然だな。

普段の大人の世界でもそうだと思う。
自分でできるだけ意識しているのは、「我が子はこうあって欲しいとか、こんな大人になって欲しいと思う人物でいよう」ということだ。
ついつい無意識だと、やはり大人のずるさやえーかげんさが出てしまうものだと思う。ま、それは自然体なんだろうけど、子どもはそこは見てるよねぇ(^_^;)

意識するってことは、自然体ではなく集中する分、精神的に疲弊するもんなんだろうか? それをしんどいと思うか?
もし、しんどいと思うなら、子どもの教育には携わらないで欲しいと思う。

子どもは親を選べない。
先生も選べない。

基本的に教育を受ける権利はあるけど、子どもだから選択肢はない。
だからこそ、教育に携わるものは自分を律するべきであると考えてる。
こう言うと「人間らしい(いいかげんな)ところを見せるのも教育ではないか」と言う人もいる。

そんなことは、その子が大人になったときに判断すればいいと思ってる。
判断力が培われていない子どもにはまずは「正しいこと」を教えるべきだと思う。大人のええかげんなところを見せて教えると幼い判断力で自分の都合の良いように考えるだろう。

ちゃんとした大人だけが、ちゃんとした子どもに育てることができるんちゃうかなぁ・・・・
2009.04.10 00:24 | 固定リンク | 子育て

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