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情けない大人達
2010.02.18
国母選手アカンかったかぁ・・・・
結果は、「勝てば官軍 負ければ賊軍」になるだろうと思う。
これで、彼は「やっぱりな」と世間からけなされるのだろう。

人はなぜ他人の悪いところだけを責めるのだろう
人はなぜ他人の良いところ見ようとしないのだろう

もちろん、良いところだけを見て、それで全てを許すのは良くないと思う。

たしかに、国母選手の服装の乱れで不愉快な想いをした人もいるだろう。
でも、服装とは関係ない彼のスノボのレベルの高さは評価すべきであろう。称えるべきであろう。オリンピックという舞台で最後の着地のミスだけで、メダルが取れなかったという結果だけで、「そらみろ」と言う人がたくさんいる。情けない・・・・

自分はオヤジであるがスノーボーダーである。もちろん、オヤジであるが故にハーフパイプなんかあぶなっかしくてやれない。自分がやっているからかばうわけではないが、スノボをやっている自分だからこそ、彼のプレイの美しさや技術の高さには感動すらおぼえる。正直、彼の得意技のマックツイストを見て「うわぁ・・・すげぇな」と感動した。

服装問題や結果ではなく、まずは彼のプレイに拍手を送り「頑張ったな」と声をかけるべきだと思う。
それが人間だろう。それが人というものだろう。

人はなぜ他人の悪いところだけを責めるのだろう
人はなぜ他人の良いところ見ようとしないのだろう

自分は、いろんな人との出会いの中でいつも思う。
人の見本のような扱いをされるボーイスカウトの中でもそうである。ボーイスカウトの子どもは無邪気であるが故にそういう他人を思いやらない言動をすることがままあり、それは心のバランスの成長過程である為にいたしかない事でもあると思う。しかし、ボーイスカウト指導者という「大人」が、事あるごとに他人を責めたり、けなしたりする光景が多々あるのである。見てて情けなくなるし、悲しくもなる。

空気を読んでいるので、若輩者の自分は目上のそういった方々に意見することはしないが、本当は言いたい。
「ボーイスカウトを指導する我々がまず彼らの見本になる言動を心がけるべきではないのか」と。
「子ども達が同じシチュエーションでいる時に『そんなヤツはけなしてやれ!』と指導するのか」と。

今回の国母選手に対する世間の言動が子ども達への「教え」となり、大人達の言動が子ども達への「教え」となることを本当に心から考えて欲しい。
2010.02.18 01:51 | 固定リンク | 生き方
国母選手問題
2010.02.15
ニュース等でも話題になっているので、説明は不要だろうがあらましは次の通りである。

オリンピック・スノーボードハーフパイプ日本代表の国母選手が日本を出発してバンクーバー入りする際、選手団の公式ブレザー姿でネクタイを緩めてシャツのすそを外に出し、ズボンをずり下げた「腰パン」姿だったことが発端。
抗議が殺到し、本人は選手村入村式への参加を自粛したが、その後の会見で「反省してま~す」と語尾を伸ばして発言、JOCなどに電話やメールで多数の批判が集まったというものである。その後、橋本選手団長に諭されて改めて神妙な面持ちで謝罪会見をしたという流れである。

この問題に関しては、世間的には賛否両論だが東京・巣鴨(お年寄りが多く集まる)でのアンケートでは「100%国母選手が悪い」という結果だった。

このブログでも「成長したベンチャースカウトを見て思う」で書いたように、「ボーイスカウト」というキリッとしたイメージのある中でも高校生クラスになると国母選手ばりのファッションを好むものも多い。実際、ウチの子どもでも下着が見えるほど下げはしないが、やや「腰パン」である。まぁ、見た目にだらしない格好を古い大人は「ファッション」とは見ないのだろうが、要はTPOの問題ではないかと思う。

たしかに、公式ブレザーであるが故に着ている間の規律的なルールの必要性は理解できるが、入村式等のセレモニーならともかく移動中まで縛り付けるのはどうかと思う。大体、問題のシーンで隣にいる他の選手でノーネクタイで公式のカッターシャツではない白いシャツを上のボタンを開けている姿もある。それはいいのかということもある。それを「だらしない」という人もいれば、「それぐらいは…」という人もいるだろう。

「規定で決まっているから」という人もいるが、該当のJOC日本選手団公式服装着用規定では、『(着用の規定) 第2条 日本選手団に認定された者(以下「選手団という」。)は、自覚と誇りを持って公式服装を着用しなければならない』となっているだけである。

結局は、自覚や誇りや見た目のだらしなさというのは、個人的感覚ではないかと思う。

述べたようにイメージや雰囲気を求める上での服装のルール化の必要性はあるとは思うが、「常に」ではなく「いつ」という定義が必要であろう。いつもいつも窮屈ではなく「ちゃんとせねばならない時がある」というTPOに応じたけじめができていればいいのではないだろうか。自分が見ているボーイスカウトの子ども達にも言う。「ONとOFFをはっきりさせよう」と。

前述したウチのベンチャースカウト、もし、国母選手の立場であった場合、おそらく移動中は似たような格好にするだろう。それはOFFと思っているからである。それでも、この騒動のように記者会見をせざる得ない状況になれば、きっちりと謝ることはできるだろう。それはその場がONだからである。なぜ、彼らはできて国母選手はできなかったか。それは、そういったけじめを含めたONとOFFの使い分けを大人が教えることをしなかっただけであろう。
これができていれば、ファッションの感性が合わない人たちにでも認められるのだと思う。

それは「見た目はNGだが、ちゃんとした場所ではちゃんとしたことができる人」と認められるからである。
これが『社会性』というものではないか。

結局は、最近の親の甘やかしなんだろうなと思う。今の時代、個性の尊重という名目で、無条件の自由を許している風潮が見受けられる。個性の尊重は大事であるが、社会性を考えた個性の自己主張ができるように子どもを育てなければならないと思う。

「大人」は、国母選手を否定する前に、自分自身が周りにいる子どもや若者に対してそういうバランスの取れた教えをしているか見つめ直すべきではないか!
そう思うのである。
2010.02.15 01:49 | 固定リンク | 子育て
子どもへの罰
2010.01.21
子どものほとんどは親や大人に叱られることをする。
決まり事を破ったり、注意を怠って失敗する。そして叱られる。要は欲求と理性のバランスの悪さが要因で、「○○してはいけない」とか「○○に注意しなければならない」というのは理解しているが、「○○したい」という欲求がその抑制たる理性を薄めてしまうのである。

それを「無邪気」という。邪気がないことを「無邪気」というのである。どっかの受け売りだが、「邪気がないことをどうして叱ることができようか」と思う。
子どもの悪さには、その無邪気さ故に”してしまった”ということがある。悪気はないのである。そして、何が正しいかは理解していたのだが”してしまった”のである。

子どもの頃、大人が叱ってくる時の「なんでそんなことするの!」という質問に困った。現在でも親は我が子を叱る時にこの言葉を発することは多いのではないかと思う。正直、こんな質問されてもなぁ・・・という感じであった。理由を聞かれても、「無邪気」でやってしまったことに理由はないのである。当然ながら「悪いことをしてやろう」と思って悪さをする子はいないはずである。

なのに、大人はたたみかけてくる。
「悪いという事がわかってないの!?」
それに「わかってる」って答えようものなら
「なんで、悪い事とわかってやるのよ!」と。
子ども心に「答えようがないよなぁ」と思った。だから、じっとうつむいて黙るしかなかった・・・

この子どもへの問いかけの先には大人はどんな答えを期待していたり、予想していたりしているのだろうか。今、大人になって考えれば、ただの親のフラストレーションのはけ口になっていただけのような気がする。質問の言葉のそのままに「ウチの子は善悪の区別がつかない」と思って聞いてるとは思えない。
それよりも悪いことをした我が子への腹立たしさを「お前は悪いことをした」という指摘を疑問的に投げかけているような気がする。悪いことを諭すなら、質問的に話す必要はない。やったことの悪影響を話し、次へ繋がる叱り方をすべきである。

叱ると共に子どもに罰を与える場合がある。
今は、昔ほど厳しい体罰はないのだろう。正座やバケツを持って立つといった「身体への負担」という罰も少ないのだろう。「ご飯抜き」もないのだろう。「○○禁止」といった楽しみを奪う罰ぐらいはあるのだろうけれど・・・

個人的には体罰は好きではない。好まないというのもあるが、体罰の教育的効果に疑問があるからである。「叩かれるから悪いことをやめよう」というのは動物的であると考えているからである。要は、体罰は子どもを「反省」という形に繋げにくいと思っている。自分自身が幼い時の事を思い出すと、叩かれた時はそのショックや恐怖だけで「自分が悪いことをしたから叩かれたのだ」という冷静な判断はできず、気持ちが落ち着いてからも「悪いことをしたら叩かれる」というルールだけが心に残って、悪いことをする事の問題点には目がいかなかった。

なので、最初に述べた「無邪気」でのオーバーランであるからこそ、それを理性で抑制する事を教えるのが正しい教育なのではないかと思う。体罰を含め、「罰」という負荷にそういう効果を持つのかが非常に疑問である。
これが、大人であれば効果はあるのだと思う。「謹慎」というのがそうである。「謹慎」はいろんな制限を経てその間に自分を見つめ直し、反省し、次に繋げようとする罰である。しかし、無邪気な子どもには、のど元過ぎれば・・・で、そんな制限での教育的効果はないのではないかと考えている。ましてや、大人が決めた制限では罪の重さも本当の意味で理解できるとは思えない。
そういう意味からも、親が与える罰なんて親自身のフラストレーションのはけ口の様な気がする。

その理論から、我が子への罰は、自分自身で決めさせることにした。
自分で、その重大さを考えさせ、それに応じて自分はどんな罰がその償い相当になるのかを考えさせるのである。そうすることにより、自分がやったことを振り返る機会となり、それはその罪の重さを理解することに繋がるのではないかと思う。

このアプローチでいくと、子どもは自分で考え「じゃぁ、○○を1週間我慢する」とか言ってくる。この罰がまた大体軽いのである(^_^;)
なので、反省の意味も込めて(プラスちょっと意地悪に)「お前のしたことは、そんな軽いことで償えるのか?」と聞き返してやる。

「罰を自分で決めろ」と言っておいて、決めたら「それは足らん」という非常に理不尽なやりとりである(^_^;) ただ、そうすることにより、やはり自分がやったことを何度も振り返る事になると共に、自分で考え打開するという社会性の訓練にもなると考えており、ずっとそうやって来た。

:*:・'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。.:*:..:*:

叱ったり、罰を与える方法は、その年代に合わせてすべきである。
それぞれの年代に効果的な叱り方は何か? 効果的な罰は何か?
そう考えると感情的に叱ったり怒鳴ったりすることはないのではないか。

感情的になっている大人の話は、子ども達の心には届かない。
感情的になっている大人が発する言葉に意味がないことを感覚的に知っているのかもしれない。
我々大人は「叱る」という行為を、本当の意味での教育として深く考え、実施すべきだと思っている。
それが「アンタのためを思って言っているのよ!」だと思う。

これも、幼い頃、よく言われたなぁ・・・
でも、この言葉も叱る親の正当性の主張にしか過ぎないと思う(^_^;)
2010.01.21 01:48 | 固定リンク | 子育て

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