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子どもへの罰
2010.01.21
子どものほとんどは親や大人に叱られることをする。
決まり事を破ったり、注意を怠って失敗する。そして叱られる。要は欲求と理性のバランスの悪さが要因で、「○○してはいけない」とか「○○に注意しなければならない」というのは理解しているが、「○○したい」という欲求がその抑制たる理性を薄めてしまうのである。

それを「無邪気」という。邪気がないことを「無邪気」というのである。どっかの受け売りだが、「邪気がないことをどうして叱ることができようか」と思う。
子どもの悪さには、その無邪気さ故に”してしまった”ということがある。悪気はないのである。そして、何が正しいかは理解していたのだが”してしまった”のである。

子どもの頃、大人が叱ってくる時の「なんでそんなことするの!」という質問に困った。現在でも親は我が子を叱る時にこの言葉を発することは多いのではないかと思う。正直、こんな質問されてもなぁ・・・という感じであった。理由を聞かれても、「無邪気」でやってしまったことに理由はないのである。当然ながら「悪いことをしてやろう」と思って悪さをする子はいないはずである。

なのに、大人はたたみかけてくる。
「悪いという事がわかってないの!?」
それに「わかってる」って答えようものなら
「なんで、悪い事とわかってやるのよ!」と。
子ども心に「答えようがないよなぁ」と思った。だから、じっとうつむいて黙るしかなかった・・・

この子どもへの問いかけの先には大人はどんな答えを期待していたり、予想していたりしているのだろうか。今、大人になって考えれば、ただの親のフラストレーションのはけ口になっていただけのような気がする。質問の言葉のそのままに「ウチの子は善悪の区別がつかない」と思って聞いてるとは思えない。
それよりも悪いことをした我が子への腹立たしさを「お前は悪いことをした」という指摘を疑問的に投げかけているような気がする。悪いことを諭すなら、質問的に話す必要はない。やったことの悪影響を話し、次へ繋がる叱り方をすべきである。

叱ると共に子どもに罰を与える場合がある。
今は、昔ほど厳しい体罰はないのだろう。正座やバケツを持って立つといった「身体への負担」という罰も少ないのだろう。「ご飯抜き」もないのだろう。「○○禁止」といった楽しみを奪う罰ぐらいはあるのだろうけれど・・・

個人的には体罰は好きではない。好まないというのもあるが、体罰の教育的効果に疑問があるからである。「叩かれるから悪いことをやめよう」というのは動物的であると考えているからである。要は、体罰は子どもを「反省」という形に繋げにくいと思っている。自分自身が幼い時の事を思い出すと、叩かれた時はそのショックや恐怖だけで「自分が悪いことをしたから叩かれたのだ」という冷静な判断はできず、気持ちが落ち着いてからも「悪いことをしたら叩かれる」というルールだけが心に残って、悪いことをする事の問題点には目がいかなかった。

なので、最初に述べた「無邪気」でのオーバーランであるからこそ、それを理性で抑制する事を教えるのが正しい教育なのではないかと思う。体罰を含め、「罰」という負荷にそういう効果を持つのかが非常に疑問である。
これが、大人であれば効果はあるのだと思う。「謹慎」というのがそうである。「謹慎」はいろんな制限を経てその間に自分を見つめ直し、反省し、次に繋げようとする罰である。しかし、無邪気な子どもには、のど元過ぎれば・・・で、そんな制限での教育的効果はないのではないかと考えている。ましてや、大人が決めた制限では罪の重さも本当の意味で理解できるとは思えない。
そういう意味からも、親が与える罰なんて親自身のフラストレーションのはけ口の様な気がする。

その理論から、我が子への罰は、自分自身で決めさせることにした。
自分で、その重大さを考えさせ、それに応じて自分はどんな罰がその償い相当になるのかを考えさせるのである。そうすることにより、自分がやったことを振り返る機会となり、それはその罪の重さを理解することに繋がるのではないかと思う。

このアプローチでいくと、子どもは自分で考え「じゃぁ、○○を1週間我慢する」とか言ってくる。この罰がまた大体軽いのである(^_^;)
なので、反省の意味も込めて(プラスちょっと意地悪に)「お前のしたことは、そんな軽いことで償えるのか?」と聞き返してやる。

「罰を自分で決めろ」と言っておいて、決めたら「それは足らん」という非常に理不尽なやりとりである(^_^;) ただ、そうすることにより、やはり自分がやったことを何度も振り返る事になると共に、自分で考え打開するという社会性の訓練にもなると考えており、ずっとそうやって来た。

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叱ったり、罰を与える方法は、その年代に合わせてすべきである。
それぞれの年代に効果的な叱り方は何か? 効果的な罰は何か?
そう考えると感情的に叱ったり怒鳴ったりすることはないのではないか。

感情的になっている大人の話は、子ども達の心には届かない。
感情的になっている大人が発する言葉に意味がないことを感覚的に知っているのかもしれない。
我々大人は「叱る」という行為を、本当の意味での教育として深く考え、実施すべきだと思っている。
それが「アンタのためを思って言っているのよ!」だと思う。

これも、幼い頃、よく言われたなぁ・・・
でも、この言葉も叱る親の正当性の主張にしか過ぎないと思う(^_^;)
2010.01.21 01:48 | 固定リンク | 子育て
信じる者は救われる
2010.01.13
先日、ボーイスカウト活動で神社で安全祈願をする活動を行った。
宗教を重視するボーイスカウトでは重要な行事なのだが、その後でスカウト達に「神様がいると思う人」と挙手させたら全員であった。ま、空気を読んだかはわからないけれど、良いことである。その際、スカウト達には次の様に言った。

「人間の心は弱く、自分自身だけでは物事を進めれない時がある。その時に別のものに頼って進めていくことも大事である」と。

それが神様であったり、別の物質的なものであったり。
無機質なものであろうが、物質的なものであろうが、他のものを目にしたり心に秘めることにより、人間の原動力となることを説きたかったのだが、難しい話でもあるので今の子ども達にうまく伝わったかは微妙である。

とにもかくにも、実は自分自身は神に頼ることはしない(^_^;)
気概として、自力で道を開きたいからである。それが活力であり次へ繋がる行動だと考えているからである。もちろん、それは自分の信念であり、神に頼る者を卑下つもりもない。
しかし、この不景気、ウチの会社もホンマにヤバくなり、ボーイスカウトの指導者なんてやっている場合ではないのだが、ここのところ「攻め」を意識して動いている。

神に頼らない自分だが、その「攻め」の一環で「えべっさん」に行って来た。1月11日「のこり福」の日。行き先はえびす神社の総本社である「西宮神社」である。
会社を立ち上げてからも一度も行ったことがない不届き者が、今更行っても何の御利益もないかも知れない(^_^;)
ただ、いつもとは違うことをすることによる自分自身の「流れ」を変えたい気持ちで行って来た。物心ついてから初めてである。お参りする手順も知らず、ただ、群衆に身を任せて回りの動きを見ながら参拝し、御札と笹を買った。
その後、同行した長男がおみくじを引くということで、ここ何年も引いていないおみくじであったが、えびす神社の総本社ということ、なんか重みがあるかも?というノリでおみくじを引いた。

「カシャカシャカシャ」
なかなか棒が出てこない・・・
やっと出てきて、何番かとみたら、ただの縦線であった(^_^;)
ん?と思い、巫女さんに「これって1番ですか?」と聞いたら「そうですよぉ~」と言って1番のおみくじをくれた。


「大吉」である!
しかも、第1番の大吉である!
しかも、「十日戎」の期間での第1番の大吉である!
しかも、えびす神社の総本社「西宮神社」の「十日戎」の期間での第1番の大吉である!

普通の神社の大吉とはなんか重みがちゃうやろ~(^_^;)
う~ん、さすがの神に頼らない自分にもこの重みは嬉しかった。
額に入れて飾り、お守りとしたくもあり折り目も付けずに持って帰ってきた。

普段やらないことをすると、なんか変化があるものである。
自分が調子悪い時はそうすることを意識している結果である。


今年はなんかいいことがあるかなぁ?(^-^)
2010.01.13 01:43 | 固定リンク | 雑記
読めない名前
2010.01.12
このことは昔から思っていた。
ここに書こうかどうしようか迷っていたが、ブログというものは自分の考えを書き出すものだと思っている。そして、ここでは基本は子どもの視点やベースを元に親や回りの大人の在り方を述べている。

そういう意味から、今までの書いてきた内容も、この私の基本概念に合わない大人には辛辣な表現に読めるかもしれない。今回の内容もそうだと思う。なので、この意見には嫌悪感を感じる人もいるかと思うがひとつの意見だと捉えて欲しい。

子どもには、読めない名前を付けるのはどうかと思う。

漢字の国なので、音読みや訓読み、または同じ漢字でも読み方がいくつかある場合があるので名付けはなかなか難しい。しかし、普段の生活や学校で習った範囲での読み方ではなく、当て字の限界を超えて想像も付かない読み方の名前はどうなんだろう?

たしかに「親の思い」や「親の期待」が込められているものなので全否定するつもりはないが、基本的に、生まれてきた子どもに選択権がないことを考えると、「一生使う名前」という観点で考えて欲しいと思う。
自分は子どもの名前に「親の思い」や「親の期待」を込めるのはあくまでも親としての自己満足の世界だと考えている。もちろん、その名の持つ意味を子どもが理解して、その愛を感じるという親子の関係を結びつける要素もあるだろう。しかし、現実社会では「名前」は個を認識する冠やラベルであり、物理的な意味合いがほとんどである。

さらっと誰でも読めない名前を付けられた子どもは、一生、名前を呼ばれる際に間違えられたり、「なんて読むんですか?」などと聞かれるのである。その子どもが生涯において、こういうシチュエーションをどのくらいの回数体験するのだろうかと思う。

愛に満たされた子どもで、自分の名前に大きな誇りを持っている子どもなら、そこに嫌悪感は感じないと思う。また、そのうち、慣れてしまうこともあるだろう。でも、「また聞かれた」と思うことも多々あるのではないかと思う。

子どもには、読めない名前を付けた親に対してどう考えているのか聞いてみたい。子ども自身が受けるデメリットの回避を優先せずに、親の思い(家族の思いや姓名判断も含む)を優先するのは前述した親の自己満足に過ぎないのではないだろうか? 特に最近はファッション的感覚で名を付けているような気がしてならない。

これをキツく受け止めた方は、子どもに聞くかもしれない。
「読めない名前でイヤ?」と。
でも、おそらく大半の子どもはイヤとは言わないだろう。それは、親の心を知っているからである。親の愛を感じているからである。しかし、前述した実際の弊害は親として名付け前に意識すべきであり、それが親の責任だと思う。

名付けというのは躾けと同等で、我が子が大人なった時に社会で困らないようにするのが正しい在り方ではないだろうか・・・・
私は、読めない名を持つ子どもに出会う度にそう思うのである。
2010.01.12 01:41 | 固定リンク | 子育て
自分がボーイスカウトに求めていること
2010.01.04
指導者になって9年である。自分は子どもの頃はボーイスカウトやっていたわけではないので、そんなにかぶれていないつもりである。だからこそ、今の時代に合うボーイスカウトのスタイルを構築しやすいと考えている。

様々な指導者と保護者に会ってわかってきたのは、各々が求める「重視するボーイスカウト像」には様々だけれど、大きくは3つに分類できそうである。

1.規律正しい
2.スカウト技能
3.スカウト精神

1の「規律正しい」というのは、正しい言葉遣いやきっちりした発言、ビシッとした動きであり、大人が見て思う「気持ちが良い言動」である。ボーイスカウトでは「スマート」と表現している。
2の「スカウト技能」は、ロープワーク、火起こし、野外料理、野外工作、キャンピング技能などのいわゆる「アウトドアテクニック」である。

この2つに関しては、一般的な人がボーイスカウトに対して持っている印象であり、ボーイスカウトに我が子を入隊させる保護者もそれを期待しているのだろう。従って、この2点が際立っていると「さすが!ボーイスカウト!」と評価されるのである。

しかし、私は一番大事なのは3番の「スカウト精神」であると思う。「スカウト精神」は日本連盟の定義では、「ちかいとおきて、モットー、スローガンに基づいた活動やふだんの生活で実践できる基礎」となっている。この精神がボーイスカウトの基礎としてあるからこそ、その上にスマートな言動や技能が培われるのだと思う。

ところが世間もそうであるし、指導者の中にも1,2だけを強調して重要視する人が多いと感じる時がある。

規律正しい言動は、調教という形をとれば造作もなくできることである。要は体罰や叱責を多用し、強制的に「せざる得ない」恐怖政治体制をとればできるものであり、指導者の中にはその様に見える指導を行っている者もいる。

技能は、基本的に興味がある子はするし興味のない子はしないのが基本である。

そういう意味から、心の教育が無くとも結果として出せるのが、規律正しい行動や技能であると考えており、重要なのは人間として本当に大事ことを謳っているスカウト精神ではないかと思っている。自分がボーイスカウトの指導者をするきっかけになったのも、このスカウト精神に共感したからである。

人として大事な感情や社会性のある発想ができる人になれば、いろんなところで他の人々や社会に貢献できるであろう。極端な話、規律正しくなくともアウトドア技能ができなくても・・・である。すなわち、社会に必要なボーイスカウトは、規律正しいことやアウトドア技能ではなく人としてすばらしい人格を持つことではないだろうか。

正直、今、私が見ているスカウト達は、残念ながら1、2、3ともにイマイチである。でも、3については事ある毎に説いている。逆にいうと1、2については甘やかしている部分がある。それは、「まずはスカウト精神」と考え、それを最優先で考えているからである。もちろん、同時進行で1、2、3をやればいいのだが(やっていないわけではないが・・)、現代の子ども達は精神が脆く、抑圧やプレッシャーに耐える力がない為に、あれこれたくさんのことを「やらせる」のは難しいのである。

信じているのは、精神が宿れば自ずと規律正しくなり、技能も身についていくということである。しかし、子ども達には、その精神さえもなかなか身につかないのが現状でもある・・・・
2010.01.04 01:39 | 固定リンク | ボーイスカウト

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