トップ団委員長のブログ

そうとも限らない
2010.07.29
このブログにはあえて毒の強い発言を心がけているので(^_^;)
読まれている方は、それなりに解釈して頂けていると考えている。
あくまでも、私論なのである。

この前に書いた塾の話でも、全ての塾がそうとは限らない。
実際に次男が小学校の時に行っていた塾はそうだった。
「家族とのふれ合いも大事ですので、家族旅行とかでは塾を休んで下さい」と
推奨してくれた。ま、これも当時は・・・の話なので、今は知らない。

中学校の時に行っていた塾もそうだったし、探せばそんな塾もあるんだと思う。

とりあえず、全ての塾が営利目的ととられてもいけないので補足しておきます(^_^;)
2010.07.29 01:57 | 固定リンク | 子育て
塾の先生は神なのか?
2010.07.09
結構長いこと書くことができなかった。ホンマ忙しくて忙しくて・・・
ことわざの「百足(むかで)の仕度」のように、グズグズしているのではなくて、足がいっぱいある分、履く靴(しなければならないこと)が多いのである(^_^;)

ま、言い訳はさておき、ボーイスカウトの指導者をやっているとスカウト達の出席率に頭を悩ませることが多々ある。今の時代の子ども達は、習い事をたくさんし、塾で強制的に勉強をさせられ、部活動をしない帰宅組に冷たい視線があったりと足かせがたくさんあり、いろんなことをしなければならない環境である。

このブログのどこかにも書いたかもしれないが、その子どもが「やること(させられていること)」の中でボーイスカウトの優先度の低い事に、自分は嘆くことが多い。たしかに、勉強も大事であろう。自分の個性や資質を伸ばす習い事も大事であろう。しかし、「人を育てる」という人間にとって大事なスキルを教えているボーイスカウトには親の理解度も少なく、ただの「まぁ、やったら良い経験になる」という程度にしか理解されていない。従って、自動的に優先度は低くなりブッキングの際はお休みされることになるのである。

たしかに、理解度に関しては我々関係者の説明方法や啓蒙活動をまだまだ工夫しなければならないのだろうが、無条件に勉強第一主義の親が多いことに憂いを感じる。ま、それはそれで親の方針でもあるわけで、その中での優先順位で文句を言われる筋合いはないわけなのだが、気になるのがこのタイトルにもなっている塾の先生の意見を親がそのまま信用しているところである。

そう言っている自分も長男が塾に行っている時、塾の先生の意見は丸呑み状態だった。裏付けされたデータで、説得力もあり、我が子の学力や勉強に対する考え方も感化されやすくなっていた。特に高校受験前の塾での評価は「絶対」と思っていた。どこもそうであるが、高校にはランクがある。例えば、ランクの上からA,B,Cと名打って説明するが、ウチの子は「まぁ、Bぐらいに行けたらいいなぁ」と考えていた。

実際、塾での評価は「今のままで十分Bですよ。頑張ったらAでも行けますよ(^-^)」と言われてホッとしていた。ところが、学校での進路相談で「Bに行かせようと考えています」と担任に言ったところ、「絶対に無理!」と言われてしまったのである。「いや、でも塾ではそう評価されたんですが・・・」と言っても、「今の学力ではCでギリギリですよ。場合によってはCも危ないですからBなんてあり得ないです」と言われた。この塾と学校とのギャップにはかなりショックを感じた。

そこで、親としてどちらを信用したらいいのかと悩んだが、なぜこの違いが生まれたのかを考察してみた。

まず、学校としては子どもの将来を考えて無理をさせず、ガチガチの安全策のレベルを目指させるだろう。それに対して塾は、よりレベルの高い学校へ合格させるとそれは実績となり、生徒を集めるという面での商売的メリットになるので、少しでも上のレベルを目指すことを奨めるであろう。そう考えると学校と塾との評価の違いがよくわかったと共に、塾は基本的に「背伸び」をさせる傾向になってしまうことも推察できた。

もちろん、自分をより高めるための「背伸び」は積極性を生み、希望を持ち、それがモチベーションとなって、最後には達成感へ繋がるので良いことではあるだろう。だが、「背伸び」させる量を間違えると不必要な(すなわちマイナスとなる)体験をさせることになり、それはモチベーションの低下を生み、それが道をそれる原因に繋がることもあると思う。

実際、高校で学力別に集められる篩(ふるい)により、しんどい思いを体験した大人はたくさんいると思う。前述した「良い背伸び」という意味での本人の能力に即した、頑張れる環境はいいのだが、それこそ、入学して底辺のレベルになる学校に行く意味はあるのだろうか。要は、無理して高いレベルの学校に行っても、その後が燃え尽きたり、挫折したりしたりする可能性が高くなり
本当の意味で、親が通わせたい「良い学校」にはならないのではないかということである。

それでも親はステータスとしてレベルの高い学校に行かせたがるのである・・・

ボーイスカウトは、大体、月1~2回程度の活動である。それが塾と重なったからというだけで来ないのである。ボーイスカウトの活動に来ないとして、代わりに塾で勉強する時間は2~3時間だろう。目指している学校が、月あたり2~3時間の勉強ができなかったから、合格できないというような自分の学力とスレスレのレベルであるなら合格しても、本人がしんどいだけではないだろうか。しかし、親は塾の先生の言い分を神のお告げの如く聞き入れる。
「ボーイスカウトなんか行っている場合ではない」
「塾を休むことの重大さをわかっているのか」
などと言われることを真に受けて従うのである。

勉強に大逆転はないと思う。要は資質と小さい時からの経験の積み重ねで知識や頭の回転や応用が身につくものである。なので、中学生の時点で大方の学力は決まっており、勉強をたくさんしたからといって、急に成績が伸びるものではないだろう。

受験は自分のレベルにあったところに行き、他のことをする余裕を持って「楽勝で合格するため」に(受験)勉強をするのが子どものためにはベストではないのだろうか・・・

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大人の時代の10年間とは全然違い、子ども時代の10年間は非常に大事な時期である。そこで経験することが、「人」の基礎となる人格や性質を作り出すのである。だからこそ、子ども時代には「人」として育つべき環境を提供してあげるのが親のつとめであり、それは「勉強第一主義」ではないのではないかと思う。

大人は失敗しても、なんらかで同じ事をしてやり直すことはできるだろう。しかし、子どもには戻れないのである。子どもとして体験することはもうできないのである。そう考えると、親としては真剣に「我が子が『人』として育める体験とは何か?」という視点で与えるものを見ることができるだろう。

それが勉強なのか?
それがスポーツなのか?
それが音楽なのか?
それがボーイスカウトなのか・・・・
2010.07.09 01:56 | 固定リンク | 子育て
国母選手問題
2010.02.15
ニュース等でも話題になっているので、説明は不要だろうがあらましは次の通りである。

オリンピック・スノーボードハーフパイプ日本代表の国母選手が日本を出発してバンクーバー入りする際、選手団の公式ブレザー姿でネクタイを緩めてシャツのすそを外に出し、ズボンをずり下げた「腰パン」姿だったことが発端。
抗議が殺到し、本人は選手村入村式への参加を自粛したが、その後の会見で「反省してま~す」と語尾を伸ばして発言、JOCなどに電話やメールで多数の批判が集まったというものである。その後、橋本選手団長に諭されて改めて神妙な面持ちで謝罪会見をしたという流れである。

この問題に関しては、世間的には賛否両論だが東京・巣鴨(お年寄りが多く集まる)でのアンケートでは「100%国母選手が悪い」という結果だった。

このブログでも「成長したベンチャースカウトを見て思う」で書いたように、「ボーイスカウト」というキリッとしたイメージのある中でも高校生クラスになると国母選手ばりのファッションを好むものも多い。実際、ウチの子どもでも下着が見えるほど下げはしないが、やや「腰パン」である。まぁ、見た目にだらしない格好を古い大人は「ファッション」とは見ないのだろうが、要はTPOの問題ではないかと思う。

たしかに、公式ブレザーであるが故に着ている間の規律的なルールの必要性は理解できるが、入村式等のセレモニーならともかく移動中まで縛り付けるのはどうかと思う。大体、問題のシーンで隣にいる他の選手でノーネクタイで公式のカッターシャツではない白いシャツを上のボタンを開けている姿もある。それはいいのかということもある。それを「だらしない」という人もいれば、「それぐらいは…」という人もいるだろう。

「規定で決まっているから」という人もいるが、該当のJOC日本選手団公式服装着用規定では、『(着用の規定) 第2条 日本選手団に認定された者(以下「選手団という」。)は、自覚と誇りを持って公式服装を着用しなければならない』となっているだけである。

結局は、自覚や誇りや見た目のだらしなさというのは、個人的感覚ではないかと思う。

述べたようにイメージや雰囲気を求める上での服装のルール化の必要性はあるとは思うが、「常に」ではなく「いつ」という定義が必要であろう。いつもいつも窮屈ではなく「ちゃんとせねばならない時がある」というTPOに応じたけじめができていればいいのではないだろうか。自分が見ているボーイスカウトの子ども達にも言う。「ONとOFFをはっきりさせよう」と。

前述したウチのベンチャースカウト、もし、国母選手の立場であった場合、おそらく移動中は似たような格好にするだろう。それはOFFと思っているからである。それでも、この騒動のように記者会見をせざる得ない状況になれば、きっちりと謝ることはできるだろう。それはその場がONだからである。なぜ、彼らはできて国母選手はできなかったか。それは、そういったけじめを含めたONとOFFの使い分けを大人が教えることをしなかっただけであろう。
これができていれば、ファッションの感性が合わない人たちにでも認められるのだと思う。

それは「見た目はNGだが、ちゃんとした場所ではちゃんとしたことができる人」と認められるからである。
これが『社会性』というものではないか。

結局は、最近の親の甘やかしなんだろうなと思う。今の時代、個性の尊重という名目で、無条件の自由を許している風潮が見受けられる。個性の尊重は大事であるが、社会性を考えた個性の自己主張ができるように子どもを育てなければならないと思う。

「大人」は、国母選手を否定する前に、自分自身が周りにいる子どもや若者に対してそういうバランスの取れた教えをしているか見つめ直すべきではないか!
そう思うのである。
2010.02.15 01:49 | 固定リンク | 子育て
子どもへの罰
2010.01.21
子どものほとんどは親や大人に叱られることをする。
決まり事を破ったり、注意を怠って失敗する。そして叱られる。要は欲求と理性のバランスの悪さが要因で、「○○してはいけない」とか「○○に注意しなければならない」というのは理解しているが、「○○したい」という欲求がその抑制たる理性を薄めてしまうのである。

それを「無邪気」という。邪気がないことを「無邪気」というのである。どっかの受け売りだが、「邪気がないことをどうして叱ることができようか」と思う。
子どもの悪さには、その無邪気さ故に”してしまった”ということがある。悪気はないのである。そして、何が正しいかは理解していたのだが”してしまった”のである。

子どもの頃、大人が叱ってくる時の「なんでそんなことするの!」という質問に困った。現在でも親は我が子を叱る時にこの言葉を発することは多いのではないかと思う。正直、こんな質問されてもなぁ・・・という感じであった。理由を聞かれても、「無邪気」でやってしまったことに理由はないのである。当然ながら「悪いことをしてやろう」と思って悪さをする子はいないはずである。

なのに、大人はたたみかけてくる。
「悪いという事がわかってないの!?」
それに「わかってる」って答えようものなら
「なんで、悪い事とわかってやるのよ!」と。
子ども心に「答えようがないよなぁ」と思った。だから、じっとうつむいて黙るしかなかった・・・

この子どもへの問いかけの先には大人はどんな答えを期待していたり、予想していたりしているのだろうか。今、大人になって考えれば、ただの親のフラストレーションのはけ口になっていただけのような気がする。質問の言葉のそのままに「ウチの子は善悪の区別がつかない」と思って聞いてるとは思えない。
それよりも悪いことをした我が子への腹立たしさを「お前は悪いことをした」という指摘を疑問的に投げかけているような気がする。悪いことを諭すなら、質問的に話す必要はない。やったことの悪影響を話し、次へ繋がる叱り方をすべきである。

叱ると共に子どもに罰を与える場合がある。
今は、昔ほど厳しい体罰はないのだろう。正座やバケツを持って立つといった「身体への負担」という罰も少ないのだろう。「ご飯抜き」もないのだろう。「○○禁止」といった楽しみを奪う罰ぐらいはあるのだろうけれど・・・

個人的には体罰は好きではない。好まないというのもあるが、体罰の教育的効果に疑問があるからである。「叩かれるから悪いことをやめよう」というのは動物的であると考えているからである。要は、体罰は子どもを「反省」という形に繋げにくいと思っている。自分自身が幼い時の事を思い出すと、叩かれた時はそのショックや恐怖だけで「自分が悪いことをしたから叩かれたのだ」という冷静な判断はできず、気持ちが落ち着いてからも「悪いことをしたら叩かれる」というルールだけが心に残って、悪いことをする事の問題点には目がいかなかった。

なので、最初に述べた「無邪気」でのオーバーランであるからこそ、それを理性で抑制する事を教えるのが正しい教育なのではないかと思う。体罰を含め、「罰」という負荷にそういう効果を持つのかが非常に疑問である。
これが、大人であれば効果はあるのだと思う。「謹慎」というのがそうである。「謹慎」はいろんな制限を経てその間に自分を見つめ直し、反省し、次に繋げようとする罰である。しかし、無邪気な子どもには、のど元過ぎれば・・・で、そんな制限での教育的効果はないのではないかと考えている。ましてや、大人が決めた制限では罪の重さも本当の意味で理解できるとは思えない。
そういう意味からも、親が与える罰なんて親自身のフラストレーションのはけ口の様な気がする。

その理論から、我が子への罰は、自分自身で決めさせることにした。
自分で、その重大さを考えさせ、それに応じて自分はどんな罰がその償い相当になるのかを考えさせるのである。そうすることにより、自分がやったことを振り返る機会となり、それはその罪の重さを理解することに繋がるのではないかと思う。

このアプローチでいくと、子どもは自分で考え「じゃぁ、○○を1週間我慢する」とか言ってくる。この罰がまた大体軽いのである(^_^;)
なので、反省の意味も込めて(プラスちょっと意地悪に)「お前のしたことは、そんな軽いことで償えるのか?」と聞き返してやる。

「罰を自分で決めろ」と言っておいて、決めたら「それは足らん」という非常に理不尽なやりとりである(^_^;) ただ、そうすることにより、やはり自分がやったことを何度も振り返る事になると共に、自分で考え打開するという社会性の訓練にもなると考えており、ずっとそうやって来た。

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叱ったり、罰を与える方法は、その年代に合わせてすべきである。
それぞれの年代に効果的な叱り方は何か? 効果的な罰は何か?
そう考えると感情的に叱ったり怒鳴ったりすることはないのではないか。

感情的になっている大人の話は、子ども達の心には届かない。
感情的になっている大人が発する言葉に意味がないことを感覚的に知っているのかもしれない。
我々大人は「叱る」という行為を、本当の意味での教育として深く考え、実施すべきだと思っている。
それが「アンタのためを思って言っているのよ!」だと思う。

これも、幼い頃、よく言われたなぁ・・・
でも、この言葉も叱る親の正当性の主張にしか過ぎないと思う(^_^;)
2010.01.21 01:48 | 固定リンク | 子育て
読めない名前
2010.01.12
このことは昔から思っていた。
ここに書こうかどうしようか迷っていたが、ブログというものは自分の考えを書き出すものだと思っている。そして、ここでは基本は子どもの視点やベースを元に親や回りの大人の在り方を述べている。

そういう意味から、今までの書いてきた内容も、この私の基本概念に合わない大人には辛辣な表現に読めるかもしれない。今回の内容もそうだと思う。なので、この意見には嫌悪感を感じる人もいるかと思うがひとつの意見だと捉えて欲しい。

子どもには、読めない名前を付けるのはどうかと思う。

漢字の国なので、音読みや訓読み、または同じ漢字でも読み方がいくつかある場合があるので名付けはなかなか難しい。しかし、普段の生活や学校で習った範囲での読み方ではなく、当て字の限界を超えて想像も付かない読み方の名前はどうなんだろう?

たしかに「親の思い」や「親の期待」が込められているものなので全否定するつもりはないが、基本的に、生まれてきた子どもに選択権がないことを考えると、「一生使う名前」という観点で考えて欲しいと思う。
自分は子どもの名前に「親の思い」や「親の期待」を込めるのはあくまでも親としての自己満足の世界だと考えている。もちろん、その名の持つ意味を子どもが理解して、その愛を感じるという親子の関係を結びつける要素もあるだろう。しかし、現実社会では「名前」は個を認識する冠やラベルであり、物理的な意味合いがほとんどである。

さらっと誰でも読めない名前を付けられた子どもは、一生、名前を呼ばれる際に間違えられたり、「なんて読むんですか?」などと聞かれるのである。その子どもが生涯において、こういうシチュエーションをどのくらいの回数体験するのだろうかと思う。

愛に満たされた子どもで、自分の名前に大きな誇りを持っている子どもなら、そこに嫌悪感は感じないと思う。また、そのうち、慣れてしまうこともあるだろう。でも、「また聞かれた」と思うことも多々あるのではないかと思う。

子どもには、読めない名前を付けた親に対してどう考えているのか聞いてみたい。子ども自身が受けるデメリットの回避を優先せずに、親の思い(家族の思いや姓名判断も含む)を優先するのは前述した親の自己満足に過ぎないのではないだろうか? 特に最近はファッション的感覚で名を付けているような気がしてならない。

これをキツく受け止めた方は、子どもに聞くかもしれない。
「読めない名前でイヤ?」と。
でも、おそらく大半の子どもはイヤとは言わないだろう。それは、親の心を知っているからである。親の愛を感じているからである。しかし、前述した実際の弊害は親として名付け前に意識すべきであり、それが親の責任だと思う。

名付けというのは躾けと同等で、我が子が大人なった時に社会で困らないようにするのが正しい在り方ではないだろうか・・・・
私は、読めない名を持つ子どもに出会う度にそう思うのである。
2010.01.12 01:41 | 固定リンク | 子育て

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