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ボーイスカウトだけが人生を豊かにするのではない
2011.05.06
昨日は、同じ区内の中学校ブラスバンドの定期演奏会に行って来た。

中学校に上がる際に、「ボーイスカウトが大好きで続けたいんだけど、どうしても吹奏楽がやりたい」と言ってボーイスカウトを辞めてしまった女の子から、「やっと聴かせれるレベルになったので来てください」と連絡があったからである。

演奏中は、その子のソロパートはないので、がんばった物理的な結果=音は正直聞こえない。でも、表情から、その空気から、大好きなボーイスカウトを辞めてでも取り組んだ吹奏楽の中間報告は十分に受け取れた。

その子の母は、同じ指導者なのでその女の子がこの2年間どれだけ学校で苦労して、部内でイジメっぽい対応をされたりしてきたことを知っている。
それでも辞めずに、自分のペースでがんばって来たことを知っている。
それを知っているからこそかもしれないが、非常に感慨深かった。
泣きそうにもなったけど我慢した。

演奏が終わり、見送りの際にグータッチして、その後も走ってきて「今日は見に来てくださってありがとうございました!」と言われたときも目頭が熱くなった。

その子なりの恩返しやケジメなんだろうな…

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このブログでも語っているように、自分はボーイスカウトの指導者だけでなく、自分に関わる子ども達には親レベルでの意識を持って接している。だからこそ、辞めていく子ども達がいることは本当はスゴく悲しいのである。自分がその子の人生に関われない悔しさがある。
でも、それを押しつけることはしない(できない)。
子どもには子どもの人生があり、それはタイミングもあり全てがベストチョイスなんだと思う。ボーイスカウトだけが、この先の子どもの未来を豊かにするわけではないこともわかっている。部活動も、他の習い事も、中学受験も、それぞれでその子どもの人生を豊かにすることができると思っている。だからこそ、その子どもの選択を否定してはいけないと考えている。
ま、当たり前のことだけど。

しかし、感情はそうではない。これからもっともっと、自分が与えることが出来るのに、それが出来ない寂しさという感情がわき上がってくる。

今書いていることは、自分のエゴだということもわかっている。
しかし、これが正直な感情なのである。

その会場で、所属しているボーイスカウトの中学1年生の2人が「吹奏楽部に入りたい」と言っているらしいということを聞いた。
きっと、ボーイスカウトは辞めるんだろうな。

「そうか、頑張れよ」と言わなきゃな…
2011.05.06 02:02 | 固定リンク | ボーイスカウト
自分がボーイスカウトに求めていること
2010.01.04
指導者になって9年である。自分は子どもの頃はボーイスカウトやっていたわけではないので、そんなにかぶれていないつもりである。だからこそ、今の時代に合うボーイスカウトのスタイルを構築しやすいと考えている。

様々な指導者と保護者に会ってわかってきたのは、各々が求める「重視するボーイスカウト像」には様々だけれど、大きくは3つに分類できそうである。

1.規律正しい
2.スカウト技能
3.スカウト精神

1の「規律正しい」というのは、正しい言葉遣いやきっちりした発言、ビシッとした動きであり、大人が見て思う「気持ちが良い言動」である。ボーイスカウトでは「スマート」と表現している。
2の「スカウト技能」は、ロープワーク、火起こし、野外料理、野外工作、キャンピング技能などのいわゆる「アウトドアテクニック」である。

この2つに関しては、一般的な人がボーイスカウトに対して持っている印象であり、ボーイスカウトに我が子を入隊させる保護者もそれを期待しているのだろう。従って、この2点が際立っていると「さすが!ボーイスカウト!」と評価されるのである。

しかし、私は一番大事なのは3番の「スカウト精神」であると思う。「スカウト精神」は日本連盟の定義では、「ちかいとおきて、モットー、スローガンに基づいた活動やふだんの生活で実践できる基礎」となっている。この精神がボーイスカウトの基礎としてあるからこそ、その上にスマートな言動や技能が培われるのだと思う。

ところが世間もそうであるし、指導者の中にも1,2だけを強調して重要視する人が多いと感じる時がある。

規律正しい言動は、調教という形をとれば造作もなくできることである。要は体罰や叱責を多用し、強制的に「せざる得ない」恐怖政治体制をとればできるものであり、指導者の中にはその様に見える指導を行っている者もいる。

技能は、基本的に興味がある子はするし興味のない子はしないのが基本である。

そういう意味から、心の教育が無くとも結果として出せるのが、規律正しい行動や技能であると考えており、重要なのは人間として本当に大事ことを謳っているスカウト精神ではないかと思っている。自分がボーイスカウトの指導者をするきっかけになったのも、このスカウト精神に共感したからである。

人として大事な感情や社会性のある発想ができる人になれば、いろんなところで他の人々や社会に貢献できるであろう。極端な話、規律正しくなくともアウトドア技能ができなくても・・・である。すなわち、社会に必要なボーイスカウトは、規律正しいことやアウトドア技能ではなく人としてすばらしい人格を持つことではないだろうか。

正直、今、私が見ているスカウト達は、残念ながら1、2、3ともにイマイチである。でも、3については事ある毎に説いている。逆にいうと1、2については甘やかしている部分がある。それは、「まずはスカウト精神」と考え、それを最優先で考えているからである。もちろん、同時進行で1、2、3をやればいいのだが(やっていないわけではないが・・)、現代の子ども達は精神が脆く、抑圧やプレッシャーに耐える力がない為に、あれこれたくさんのことを「やらせる」のは難しいのである。

信じているのは、精神が宿れば自ずと規律正しくなり、技能も身についていくということである。しかし、子ども達には、その精神さえもなかなか身につかないのが現状でもある・・・・
2010.01.04 01:39 | 固定リンク | ボーイスカウト
成長したベンチャースカウトを見て思う
2009.09.29
先週末は久々のキャンプだった。
今回は、ベンチャースカウト(中3~高3)の上級生が3人手伝いに来てくれたのでなかなか順調にいった。彼らとはカブスカウト(小2~小5)の時からの付き合いなので、結構気心知れてる仲であり、その成長を目の当たりにしてきている分、我が子に近いところがある。

三者三様にタイプの違う高校生なのだが良い奴らである。勉強がイマイチであったり、ピアスを開けて腰パンであるヤツもいる。ま、今時の高校生である。世間的には「う~ん?」というような風貌にも見えるかもしれないが人の心がちゃんとわかり他人に気遣いができるヤツであるし、大人にはきっちり敬語でしゃべってくる。指示したルールもちゃんと守る。今回のキャンプでもめっちゃくちゃ助かった。

オレはこいつらが大好きである。

オレが思う人間として大事な部分、心の奥でしっかりと握られているのがわかるから風貌や勉強なんてどうでも構わない。そういうものを持っている限り、社会に出ても人に愛され頼りにされるのだろう。一生付き合えるのなら付き合っていきたい。困ったことがあれば、出来る限り助けてやりたいと思っている。

彼らは、カブスカウト時代はやんちゃだったが、ボーイスカウト(小5~中3)の時からやるべきことはちゃんと出来ていた。今、自分が見ているボーイスカウト達と何がこうも違うのだろう・・・・?
自分の視線や視点が変わってしまっているのだろうか。

・・・人数比なのかもしれないなぁ・・。
人が10人いれば、2人が優秀、2人は無能、残りの6人は普通と言われる。
当時は、スカウトの人数も少なかったので、そういう意味で困ったちゃんスカウトの人数も比率的に少なかったであろう。今は、当時の倍近くいる。いつも悲観的なことをここに書くが、もちろん、優秀なスカウトも何名かはいる。期待できそうな新人スカウトもいる。そういう意味では、ただ単に比率的は同じなのだが人数的に困ったちゃんスカウトが多くなって、目立って気になっているのかもしれない。

あぁ・・・それと困ったちゃんスカウトは高校生までにボーイスカウトを辞めてしまっている分、今残っているベンチャースカウトはちゃんとした奴らばかりなのかもしれない。(こうやって言うとすごい奴らのようにも聞こえるが、ええかげんなところも実はたくさんあったりする(^_^;))

とにもかくにも、新しい体制でスタートしている。
新しい班長次長には正直期待している。パーンとリーダーシップを発揮するようなキャラはいなさそうだが真面目な奴らでメンバー構成をしている。問題は残りの班員だろう。如何に指導者がきっちりと指導とフォローで、班長達を助けていけるかが課題だと思っている。
2009.09.29 00:46 | 固定リンク | ボーイスカウト
自分勝手がまかり通る世の中
2009.09.24
今日は、ボーイスカウト活動で社会奉仕活動の一環で地域清掃の奉仕活動を行った。まぁ、要は地域のゴミ拾いをするわけだが、班ごとに分かれて空き缶やゴミを拾い集めていくことにした。

特になんてことない活動で、よくあるっちゃよくある内容なのだが後で班長から報告というか相談があった。

班長曰く、班員にゴミを拾うように指示をしたのだが、返ってきたセリフが「拾ったゴミを持って帰らなアカンのはイヤやからやらない」というものだった。それも一人ではなく複数人でそういうことを言い出したらしい。
結局は、班長がゴミを持って帰るからということで渋々ゴミ拾いを始めたらしいのだが、こいつらは、何の為にボーイスカウト活動をしているのかと腹立たしく思った。

こういうことを言い出す輩は、そのほかの活動でもいい加減でサボりの常習者である。その後のテント設営訓練でも、他のスカウトがやっている中、ボーッとしていたり、何もしていないことが多い。

ま、面倒くさいとかの感覚に関しては今も昔も変わらないだろう。
そんな自然発生的な感情を否定するつもりはなく、それよりもそういうことを平気で言えることが不思議に思った。

普通(?)は、そういう事を言う自分が他人から否定されることが多く、また道徳として間違っているという観点から思っても口にはしないものだと思う。
しかし、それを平気でやってのけるのは、自身の生活の中でそんなスタンスでもデメリットが生ずる機会が少ないのだろうかと思ってしまう。
正に、今の「言ったもん勝ちの世の中」なんだろうな。
世間で言われる『モンスターペアレント』と同じである。その親たちも同様に他人から否定されようが道徳の観点からずれていようが、平気で自分勝手な言動を起こすわけであり、問題の大きさは違うにしろ発想から言動への流れは同じだと思う。

『モンスターペアレント』的な話を耳にするといつも思うのが、その保護者の子はその親をどう見ているのだろうかと・・・
子どもからすると、親は「常識の基準」になるわけである。親の言動を見て、それが「当たり前」という形でインプットされ、その子どもの普段の言動に繋がるのだと思う。その理論で行くと、今回の自分勝手なボーイスカウトは保護者が作り出したものなのだろうか・・・?

答えはわからないが、少なくとも子どもの性格に親の言動の影響が大きいことは間違いない。
そういう意味では、親は本気で一生懸命に子どもの見本となるべく生き方をすべきだと思う。
できているできていないは別として、自分はそう意識して「親」をやっている。
それが当たり前だと思っているから。
2009.09.24 00:45 | 固定リンク | ボーイスカウト
Pain of Judas
2009.08.29
キリスト教を信仰されている方は当然ご存じで、ボクのように宗教をよくわかっていない人にとっても、耳にしたことがあるであろう「ユダの裏切り」。
新約聖書マルコの福音書3章19節にあるのだが、要はイエスキリストの使徒であったユダが密告したことにより、最終的にイエスキリストが処刑されたという話である。

聖書の解釈はそれぞれでいろんな説があり、人々が神を裏切った為に、ユダにその裏切り行為させて、最終的にキリストが処刑されて人々が目覚めたという説がある。その中では、ユダは自分が密告しキリストが処刑されたことの罪の痛みに耐えられず自殺したとなっている。このユダの罪の痛みを「Pain of Judas」(ユダの痛み)と言うらしい。

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この前の無人島キャンプで、自分が耐えきれず、スカウトに手を挙げた。
回し蹴り2発、軽いビンタ5発ぐらい。ボクのことを知っている人からは、たぶん信じられない行為であろう。

長男が生まれた時から、いや、その以前から子どもは動物ではなく「言ってきかせることができる」と信じてきた。だからこそ、我が子には一度も手を挙げたことがなく、それでもそれなりに育っている。手を挙げる行為は子どもに恐怖心を与えるだけで教育ではないと思ってきた。なぜなら、そうされ続けると子どもは「たたかれるから・・・」という動機で、物事を判断すると考えているからである。

ボーイスカウト活動でも、常に形ではなく本質を大事にすることをスカウト達に教えている。教育もそうだと思っている。何が大事なのかという本質を教え理解させ、それに共感して子どもはちゃんとできるのだと思う。それがしつけであると考えている。

この3年間、ボーイスカウト隊でその本質を言葉で伝える教育を行ってきた。
しかし、ここにも書いてあるように、思い通りにはいかなかった。
そして、無人島キャンプ最終日の片付けの時、ある班で、自分たちが手伝わない為に班長が泣いてうずくまっている状況になった。隊長として「どうしたらうまく伝わるだろうか」と頭で模索しながら、要因となっている班員達に話をしていた。
その中で、いつもどおり、こちらの顔を見ない、じっとしない状態で、とても叱られているという状況ではないのである。

常に冷静が自慢のボクでも軽くキレて、一番右のスカウトにおもいっきし回し蹴りをかまし、怒鳴った。スカウト達はびっくりした表情になり、その後、蹴られたスカウトが涙を流し始め、他のスカウトも泣き出した。

その状態で人として大事なことを伝えたが、その時、自分の言葉が伝わっていくのを感じた。

結果オーライであるが、かなりヘコんだ。説教が終わったと泣きそうだったので、サングラスをして海を見て心を静めるように務めた。昼ご飯も食べる気がしなかった。

それ以降、その日は「締める」意味で整列中にグダグダしているスカウトに高速ビンタをかましたら、やはり驚いた顔をした。この時は自分でもスタンツとしてビンタをしているのでそんなにしんどくはない。

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学校では体罰があると、親が怒鳴り込んできて、マスコミも飛びつく。
だから、先生は気軽にこづくことすら出来ない。家庭でもボクのように手を挙げない親が増えてきていると思う。だから、今の子は大人をなめているんだろうか・・・

今でも子どもは「言ってきかせることができる」と信じている。
もちろん、そんな子どももたくさんいるが、それが通用しない子どももいる。
実際に、手を挙げた効果は後日のキャンプ反省会での雰囲気でも出ていて、話をするのが楽しかった。ちゃんと大人の話を聞こうとする姿勢が見られた。

手を挙げるということが、結果として教育的効果があるのが現状であるが、そうしたくない自分との葛藤がしんどい。
手を挙げることの罪の痛みが辛いのは辛い。でも、それが結果的に子ども達をよくする事になるなら隊長としてすべきだと思う。
唯一の救いは、手を挙げても自分がある程度冷静であること。
これが「愛のムチ」なんだろうな。

次節は、「愛のムチ大作戦」で行くつもりである。
2009.08.29 00:43 | 固定リンク | ボーイスカウト

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