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また、言われた・・・・
2009.12.21
「富永隊長だからできるんですよ!」
とある同僚指導者から言われた。「あぁ、また、言われた・・・」と思った。

事の発端は、スカウト達の身勝手な行動をうまく治めれていない風に見え、それに口出しをしてしまったことからである。
普段は、できるだけ他の隊の状況に口出しをすることはしない。それは、子どもの教育というのは、大人それぞれで、指導者それぞれで違うわけで、各々が「子どものために」と考えて行っていることであり、それを無碍に口出しすることは、言われた側の取りようによっては自分を否定されたと思うことがあるからである。

ただ、自分はコミッショナーやトレーナーといった指導者を支援指導する立場でもあり、悩んだ結果、少しアドバイスするつもりで話を始めた。ボーイスカウトの手法や取り組み方の応用、ちょっとしたヒントである。大事なのは、こう考えてこう実行することなんですよみたいなことを言ったところ、
「○○隊長だからできるんですよ!」と言われてしまった。

すなわち、裏返せば「自分にはできない」である。
”言霊(ことだま)”のタイトルで書いた好きではない言葉である。
それと「あなただからできる」という言葉。
違うんだけどなぁ・・・でも、よく言われる・・・
(´ヘ`;)

もちろん、イヤなのはその状況だけであり、その言葉を発した人を卑下(ひげ)するつもりもないし、その人に対して嫌悪感を感じることもない。そう発するその人の心境は理解しているつもりだからである。そして、その人は一生懸命やっていることを知っている。その人を否定するつもりはなく、子ども達の為にがんばって欲しいからこそ、「意識改革」というエールとしてのメッセージを送りたいのである。

自分はそんな特別ではないと思っている。たしかに他人より優秀な面はあるだろう。でも、他人より劣っているところもある。上を見ればキリがない。下を見てもキリがない。要は比較してもキリがないのである。しかし、自分は特別ではないと自覚しているからこそ、努力は怠らない様にしている。もちろん、人間だから努力できないときもある。でも「やろうとする意志」だけは消さないでおこうと意識している。要は、大事なのはその「意志」ではないだろうか。

100点満点の人間なんか存在しない。
でも、それを目指すから人は成長するのだと思う。
まず、最低限することは「やろう!」と思うこと。結果ではない。
なのに、人はやりもしないのに結果を予測して、最初から「できない」と考え、高みを目指すことすらしない。

自分自身だけの問題なら、成長なんかしなくてもいいだろう。
でも、人は社会において何らかの役を与えられているのである。別に職業とかボランティアといった世界での具体的な役だけではない。人は人の輪の中にいる限り、役目があるのである。それは「家族」という名の社会の中でもそうである。自分の成長が家族に与える影響こそが自分の役である。

このブログで重要視している「親の成長」は正に家族という中の「親」という役なのであり、成長しない自分が与える影響を考えている親はどれだけいるのか。子育てはたしかに大変である。子どもの年齢や性格ごとに細かな対応が求められる。
でも、それは自分が「親」になった時、決まっていることであり、その為の「親の成長」を「わたしにはできない」と言葉を発することは、「親」という役の放棄であり、親を選べずにこの世に生を受けた子どもにはたまったもんじゃない。「親」は「親」である限り、常に成長しようとする意志をちゃんと持つことが子どもへの愛なのだと思う。

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最近、マンガで、この考えというか気持ちに沿う名言が書かれていたので、ここに記す。「あひるの空」というバスケのマンガである。このマンガには、本当に人として大事なメッセージがたくさん書いてある。

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人が「もうダメだ」っていう限界ギリギリのラインなんてこんなもんじゃない。
こんなもんじゃないんだ!
「上達しないのはセンスがないから」
「退いてしまうのは才能がないから」
「あの人には、あのチームにはかなわないから」

人は目指していた何かを断念する時必ず理由をつける。

なぜだかわかるか?

その方が楽だからだ。
ダメならダメでいい。
ただ自分の努力の足りなさを別の何かのせいにはするな。

走りっぱなしの奴なんてこの世にいない。
進んでとまって、
止まって進んで、
人はそれを歩みと呼ぶのだ。
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この言葉のように、人は努力して、挫折して、また努力して。その繰り返しこそが歩みなんだと思う。
自分は、生きていく上で、努力して、挫折して、を繰り替えてしてきている。
だからこそ、自分自身も成長できていると思っている。

親としても、スカウト達を指導する教育者としても、怠ることなくこの歩みは続けていきたい。
2009.12.21 01:37 | 固定リンク | 子育て
親の手作り
2009.12.04
「親の手作り」という言葉がある。
親が手作りで子どもに与えるものの事であるが、裁縫でこしらえたものであったり、弁当であったり、家で作るご飯もそうである。

昔は、既製品も少なく、ホカ弁屋もなかった。レトルト食品や冷凍食品もなく、コンビニおにぎりもなかった。もちろん、家庭の経済状況も今と比べると良くなかっただろうが、自分が子どもの時は母親の手作りのものが多かった。まわりも同じである。

今は便利な世の中になり、手作りをせずとも既製品が存在し、簡単に調理済みの料理を食べさせることができる。小学校の運動会でも家族でコンビニのお弁当を食べているシーンもあるほどだ。そういった既成物を利用するには理由もあるだろうし、それを否定するつもりはない。また、全てが親の手作りであるべきだとも思わない。

ただ、親が「手作り」という手間をかけて、物や食べ物を子どもに与える意味はなんなんだろうと思う。

教育的には、「子どもに人にしてもらえるありがたさを感じさせる」ということなのかもしれないが、正直、子どもがそこまで繊細に感じ取ることは難しいと思う。ましてや、現代っ子であればあるほど「してもらうのは当たり前」と思うことだろう。では、それ以外には…というと「親としての愛情がなせる行動」なのではないかと思う。

昔は、作るしかなかったからこそ「仕方なく」という感覚もあったかもしれないが、それでも「我が子のために」という気持ちはあるはずである。愛しているからこそ労力をかけるのだと思う。子にかける労力は愛なんだと思う。

今の時代の親は、この便利な世の中で我が子にどれだけ労力をかけているだろうか?
面倒くさいとか、疲れているからと言って、簡単に既製物に頼ってはないだろうか?
もちろん、本当にパワー不足で頼っていることもあるだろうが、安易に頼っていることはないだろうか?
それはただの「手抜き」であり、すなわち子どもへの愛情も手を抜いていること考えるべきではないか。

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このブログで書く内容は非常に神経質なレベルなのかもしれない。
しかし、人間は意識しないと自己中心的な発送や言動になりがちである。
如何に意識を持ち続けるか。それが人間、親としての向上に繋がるものだと信じている。

今日のくだりは、まとまりがない気がするが
多忙につきこの辺で。
2009.12.04 01:33 | 固定リンク | 子育て
蔑む(さげすむ)心、羨む(うらやむ)心
2009.10.25
ボーイスカウトの子ども達にはよく言う話である。

人間は、弱者見つけると蔑んだ(さげすんだ)言動をしがちである。要は自分より人格・能力などが劣る者を、卑しい者としてばかにしたり、見下したりすることであり、正に「いじめ」が典型的な例であると思う。
いろんな表現があるだろうが、直接的ではなくても陰でこそこそ言ったり、または心の中でつぶやくこともあるだろう。
「あいつアホやわ」
「あかんヤツ」
「や~い、○○」
などと・・・

対して、教者見つけると羨んだ(うらやんだ)言動をしがちである。要は自分より他人が自分より恵まれていたり、優れていたりするのを見て、自分が他人ほど恵まれていないことを不満に思うことであり、それを言葉にして相手を(陰口であれ)攻撃することである。
「なんやあいつ」
「別にすごくないわ」
「いちびっとんか」
などと・・・

多くは理性が未熟な子ども達の世界での話であるが、結構大人でも平気でこの2つの言動を実行する者も多いことにびっくりする。

蔑むという行為?心?は、自分と同等以下の他人を心の中でランクダウンさせ、自分の位置より下であることを自己認識し、安心感を得るのだと考えている。「あいつは自分より下やからオレの方がえらいわ」みたいな感じである。
羨むという行為?心?は、自分より優れている他人を心の中でランクダウンさせ、自分と同等ぐらいまで降ろしてきて、安心感を得るのだと考えている。「あいつ、ええかっこしやがって。何もえらくないわ」みたいな感じである。

人は自分が優れていると実感できると安心する。そういう無意識下からの自然発生的な感情であり、止めることはできないのだが、そう思う(思ってしまう)自分自身は恥ずかしいことなんだと子ども達には教えている。
なぜなら、「蔑む」も「羨む」も自分は何も努力も成長していないのに、相手をそう(心の中だけだとしても)攻撃することにより、いかにも自分が優れていたり恵まれていたりと思おうとしているからである。楽をして自分が他人より(心の中で)上になり安心しようとしている卑しい行動である。

人を蔑むのではなく、自分より劣る者を助けるのが優れた人の行為である。
人を羨むのではなく、自分で努力し、その人を上回ろうとするのが優れた人の行為である。
それを自分のプライドとして実行し、優秀な人になるべきである。

このブログでは、「子どもの見本となる大人」というキーワードを多用している。
子どもを育てる大人で一番大事なことだと思っているからだ。
このブログを見ている大人の方。
子どもの前で、他人を蔑む言動をしていないだろうか??
子どもの前で、他人を羨む言動をしていないだろうか??
子ども達は、それを見ている。それを学習という。
2009.10.25 01:21 | 固定リンク | 子育て
ターミネーター
2009.08.05
最近、AXNのターミネーター サラ・コナー クロニクルズを見ている。
映画のターミネーター2の続編を海外ドラマとしてTVで放映しているわけだが、その1シーンで印象に残ったことがある。

未来から命令を受けて、現代にタイムスリップしたターミネーターがその役目を果たし終わったとたんに、動かなくなるシーンである。ストーリー内の説明では、命令を実行し終わったので待機状態(次の命令待ち)であるということだ。

仕事柄、「なるほどね」と思っていた。

先日、ボーイスカウトでキャンプに行った。部活動の大会の関係で参加者は十数名と少なく、こぢんまりとして目が届きやすかった。
1泊し、テント等を片付けるシーンをじっと観察しているとあることに気づいた。

前述したように、中学生がほとんど参加しておらず、小学生がほとんどの班構成。要領が悪いとか手順がわからないとかで、テントの片付けもうまくいかないんだろうと思っていた。実際に、全員で片付けに徹しているものの時間が掛かりすぎているが、どうも子ども達がやり方を良くわかっていないといった類のロスでは無いことに気づいた。

班長が指示をし、それに班員はちゃんと従ってやっている・・・・
一見、ちゃんと出来ている風だが前述したターミネーター状態であることが見てた。

班員の子ども達は、個々に容量や手順をわかっている風だが、班長が細かい指示をしていると、それ以外の事は出来ないのだ。班長は一生懸命、「おい、そこのテントの端を持って」「はい、次、その端を個々に持ってきて折りたたんで」と指示をしている。班員はその指示通りにし、それが終わったら立ちすくんでいる。

まさに、命令に従いそれが完了すると待機状態になるターミネーターである。

すぐさま、班長達を呼んで、それを伝え、もっと班員達にまかせてしまうように指示をした。まかせられると自分で考えどんどん行動していくことになる。元々、知識や経験はあるわけだから、自分で考えて行動する機会があると考えて行動するものである。常に指示する班長がいるからこそ、その指示のみを遂行することが絶対と思ってしまうのだろう。

結局は、家庭でも同じように親から細かい指示をされているのではないだろうか。「部屋を片付ける」ということにおいても、ノロノロする子どもにしびれを切らせた母が、細かく「はい、これはあそこにしまって」「はい、それはこう入れたらキレイに入るでしょ?」と事細かに指示されてしまっているのではないだろうか。

このブログでも書いたとは思うが、最近の子どもは自分で物事を考えて行動することができなくなっている。そこには家庭教育があり、自分ではちゃんと育てていると自負している親が気づかないところで、そのような子どもに考えさせる機会を奪っていないだろうか。

今の時代、結果を求められ、それがステータスでありプライドとなっている。
だから、いろいろと口出し、手出しする親が多くなっていて、それに気づいていない現状もあるのだろう。

「子どものため」という名目で、親自身のプライドを満足するための躾けになっていないかを親はもう一度振り返るべきではないだろうかと思う。
2009.08.05 00:34 | 固定リンク | 子育て
とある親子を見て・・・
2009.06.15
先日、歩道を歩いていて親子連れを見た。
5メートルほどの幅の道路の両端に歩道があるのだが、進行方向に向かって右側の歩道を父らしい人と3~4歳ぐらいの男の子が歩き、左側の歩道を母らしき人とその妹(勝手に想像(^_^;))らしき人が歩いていた。なんらかで、その女性2名が右側の歩道に渡れず、そのまま平行して歩いていたんだと想像できる。

ある地点で、その男の子が「ママー、こっちだと影があるからおいでよー」と反対側の母に向かって声をかけた。横断歩道も信号もない場所で、母はどうするのかと気になった。

私は、子どもの見ている前で交通ルールを守らない大人はアカンと思う。それを子どもは見て学び、横断歩道が無くても信号が無くても自分で判断して渡るようになり、それは、「社会にルールがあっても自分の判断で破ることはかまわない」という習慣に繋がると考えているからである。

この考えに「考えすぎ」と思う方もおられるだろう。
でも、このケースで母が平気で道路を横断する姿を見せると、逆のケースで合った場合、子どもは平気で飛び出すことにならないかと思う。それだけ、子どもは単純だからである。

案の定、その母は「あらホントー」と道路を横断して子どものそばに来た。
そばにいた父も何もなくそのまま過ごした。

・・・・・・・・・・・

違和感があった・・・自分ならどうするか考えてみた。
たしかに、その地点から次の横断歩道までは50mぐらいあったので、その場で渡りたくなるのは良く理解できるし、自分でも迷うところである。

ひとつの案としては、
「ママねー、そっちへ行きたいけど、ここは車が通るので危ないでしょ? だから、この先の横断歩道で渡るね」
と言って平行のまま歩いていくことだろう。そうすれば、子どもは自然と「それが当たり前」という感じで、道路を歩く際の危険回避や交通ルールを学ぶことができるのだと思う。

もうひとつの案は、こんな感じかな・・・
「ママねー、そっちへ行きたいけど、ここは車が通るので危ないでしょ? だから、危なくないか、右と左を見て車が来ないか見てくれない?」
と子どもにお願いし、子どもが左右確認して「大丈夫だよー」と声をかけてもらい、そして渡るのもいいかなと思った。もちろん、渡りきったら「ありがとう。助かったわ」と声をかけるのは当然のこと。

子どもは、自分の言動で親に喜ばれるのが大好きである。
この方法だと、子どもは「自分が親の役に立った」という満足感に浸り、かつ道路を横断する際には左右の確認が必要であることも学べるだろう。

所詮、その子も大きくなれば、他の友達とつるんで遊ぶようになり、そこからルールを守らない行動も身につくのだろう。ならば、後者の方が親子の信頼関係を築くことができ、安全確認の習慣も身につくような気がする。

どちらにしろ、普段の生活において、より良い子育てができるチャンスはいくらでもあるということになる。ひとつひとつのシーンをちょっと考える習慣があれば、普段の生活や習慣で「しつけ」ができるのにな・・・と思った。

これも考え過ぎなのだろうか・・・
2009.06.15 00:31 | 固定リンク | 子育て

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