トップ団委員長のブログ

Pain of Judas
2009.08.29
キリスト教を信仰されている方は当然ご存じで、ボクのように宗教をよくわかっていない人にとっても、耳にしたことがあるであろう「ユダの裏切り」。
新約聖書マルコの福音書3章19節にあるのだが、要はイエスキリストの使徒であったユダが密告したことにより、最終的にイエスキリストが処刑されたという話である。

聖書の解釈はそれぞれでいろんな説があり、人々が神を裏切った為に、ユダにその裏切り行為させて、最終的にキリストが処刑されて人々が目覚めたという説がある。その中では、ユダは自分が密告しキリストが処刑されたことの罪の痛みに耐えられず自殺したとなっている。このユダの罪の痛みを「Pain of Judas」(ユダの痛み)と言うらしい。

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この前の無人島キャンプで、自分が耐えきれず、スカウトに手を挙げた。
回し蹴り2発、軽いビンタ5発ぐらい。ボクのことを知っている人からは、たぶん信じられない行為であろう。

長男が生まれた時から、いや、その以前から子どもは動物ではなく「言ってきかせることができる」と信じてきた。だからこそ、我が子には一度も手を挙げたことがなく、それでもそれなりに育っている。手を挙げる行為は子どもに恐怖心を与えるだけで教育ではないと思ってきた。なぜなら、そうされ続けると子どもは「たたかれるから・・・」という動機で、物事を判断すると考えているからである。

ボーイスカウト活動でも、常に形ではなく本質を大事にすることをスカウト達に教えている。教育もそうだと思っている。何が大事なのかという本質を教え理解させ、それに共感して子どもはちゃんとできるのだと思う。それがしつけであると考えている。

この3年間、ボーイスカウト隊でその本質を言葉で伝える教育を行ってきた。
しかし、ここにも書いてあるように、思い通りにはいかなかった。
そして、無人島キャンプ最終日の片付けの時、ある班で、自分たちが手伝わない為に班長が泣いてうずくまっている状況になった。隊長として「どうしたらうまく伝わるだろうか」と頭で模索しながら、要因となっている班員達に話をしていた。
その中で、いつもどおり、こちらの顔を見ない、じっとしない状態で、とても叱られているという状況ではないのである。

常に冷静が自慢のボクでも軽くキレて、一番右のスカウトにおもいっきし回し蹴りをかまし、怒鳴った。スカウト達はびっくりした表情になり、その後、蹴られたスカウトが涙を流し始め、他のスカウトも泣き出した。

その状態で人として大事なことを伝えたが、その時、自分の言葉が伝わっていくのを感じた。

結果オーライであるが、かなりヘコんだ。説教が終わったと泣きそうだったので、サングラスをして海を見て心を静めるように務めた。昼ご飯も食べる気がしなかった。

それ以降、その日は「締める」意味で整列中にグダグダしているスカウトに高速ビンタをかましたら、やはり驚いた顔をした。この時は自分でもスタンツとしてビンタをしているのでそんなにしんどくはない。

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学校では体罰があると、親が怒鳴り込んできて、マスコミも飛びつく。
だから、先生は気軽にこづくことすら出来ない。家庭でもボクのように手を挙げない親が増えてきていると思う。だから、今の子は大人をなめているんだろうか・・・

今でも子どもは「言ってきかせることができる」と信じている。
もちろん、そんな子どももたくさんいるが、それが通用しない子どももいる。
実際に、手を挙げた効果は後日のキャンプ反省会での雰囲気でも出ていて、話をするのが楽しかった。ちゃんと大人の話を聞こうとする姿勢が見られた。

手を挙げるということが、結果として教育的効果があるのが現状であるが、そうしたくない自分との葛藤がしんどい。
手を挙げることの罪の痛みが辛いのは辛い。でも、それが結果的に子ども達をよくする事になるなら隊長としてすべきだと思う。
唯一の救いは、手を挙げても自分がある程度冷静であること。
これが「愛のムチ」なんだろうな。

次節は、「愛のムチ大作戦」で行くつもりである。
2009.08.29 00:43 | 固定リンク | ボーイスカウト

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